中塚古墳 (若狭町)
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中塚古墳 | |
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墳丘(中央に後円部、右に前方部) | |
所属 | 上中古墳群(うち脇袋古墳群) |
所在地 | 福井県三方上中郡若狭町脇袋 |
位置 | 北緯35度28分2.35秒 東経135度52分32.84秒 / 北緯35.4673194度 東経135.8757889度座標: 北緯35度28分2.35秒 東経135度52分32.84秒 / 北緯35.4673194度 東経135.8757889度 |
形状 | 前方後円墳 |
規模 | 墳丘長70m |
埋葬施設 | (推定)横穴式石室 |
出土品 | 埴輪片 |
築造時期 | 5世紀末 |
史跡 | 国の史跡「中塚古墳」 |
地図 |
中塚古墳(なかつかこふん)は、福井県三方上中郡若狭町脇袋にある古墳。形状は前方後円墳。上中古墳群(うち脇袋古墳群)を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている。
概要
[編集]古墳群 | 古墳名 | 形状 | 墳丘長 | 築造時期 |
---|---|---|---|---|
脇袋 | 上ノ塚古墳 | 前方後円墳 | 100m | 5c初 |
城山古墳 | 前方後円墳 | 63m | 5c中 | |
脇袋 | 西塚古墳 | 前方後円墳 | 74m | 5c後 |
中塚古墳 | 前方後円墳 | 72m | 5c末 | |
天徳寺 | 十善の森古墳 | 前方後円墳 | 68m | 6c初 |
日笠 | 上船塚古墳 | 前方後円墳 | 70m | 6c前 |
下船塚古墳 | 前方後円墳 | 85m | 6c中 |
福井県南西部、若狭地方中央部にある膳部山(ぜんぶやま)の西側山麓に築造された古墳である。膳部山山麓は、本古墳含む7基(現存確認5基)からなる脇袋古墳群が営造された地域であるが、特に若狭地方の広域首長墓(若狭の王墓)とされる古墳3基(上ノ塚古墳・西塚古墳・中塚古墳)を含み、「王家の谷」に擬される地域になる[2]。本古墳はこれまでに宅地化・畑地利用で墳丘が大きく改変を受けているほか[3]、1992年(平成4年)に発掘調査が実施されている[4]。
墳形は左右非対称の前方後円形で、前方部を南方に向ける(西塚古墳と同方向、上ノ塚古墳と逆方向)[3]。墳丘は2段築成[4]。墳丘外表では葺石が認められている。墳丘周囲には盾形の周濠が巡らされており、周濠外堤の斜面でも葺石が認められるほか、周濠内からは円筒埴輪が検出されている[4]。埋葬施設は明らかでないが、横穴式石室と推定される[4]。
築造時期は、古墳時代中期の5世紀末[2](または5世紀末-6世紀初頭[4])頃と推定される。若狭の首長墓としては西塚古墳に後続し、十善の森古墳に先行する時期に位置づけられる[1][2]。被葬者は明らかでないが、後背の「膳部山」の名にも見えるように、一帯の脇袋古墳群ひいては上中古墳群は若狭国造の膳臣(かしわでのおみ、膳氏)一族の首長墓群と考えられており、本古墳もその1つと想定される[1][2]。
古墳域は1935年(昭和10年)に国の史跡に指定されている[5]。
遺跡歴
[編集]墳丘
[編集]墳丘の規模は次の通り[4]。
- 墳丘長:約70メートル(または72メートル[2])
- 後円部 直径:約46メートル
- 前方部 幅:約60メートル
-
墳頂
文化財
[編集]国の史跡
[編集]- 中塚古墳 - 1935年(昭和10年)12月24日指定[5]。
関連施設
[編集]- 若狭町歴史文化館(若狭町市場) - 中塚古墳の出土埴輪等を保管・展示。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『日本歴史地名大系 18 福井県の地名』平凡社、1981年。ISBN 4582490182。
- 「上中古墳群」、「中塚古墳」。
- 山口充「中塚古墳」『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607。
- 宮崎認「中塚古墳」『続 日本古墳大辞典』東京堂出版、2002年。ISBN 4490105991。
- 「中塚古墳」『国指定史跡ガイド』講談社。 - リンクは朝日新聞社「コトバンク」。